Masuk「で、だ。……イヅル」
父の鋭い視線が、わたくしの後ろに控える影へと移る。
イヅルは、今まで気配すら消していたのが嘘のように、するりと一歩前に進み出て、片膝をついて跪く。「は、ここに」
「この、常軌を逸した場当たり的な奇策は、どう考えてもお前の入れ知恵だろう。違うか?」え。うーん、作戦自体は、わたくしの独断だってば。
『麗しの白百合に、消えぬ染みを』作戦。特に名前が、すごく気に入ってるの。「いいえ。すべては、ベアトリーチェお嬢様の類稀なるご慧眼と、千変万化のアドリブ力によるものでございます。わたくしめはただ、お嬢様がお怪我をなさらぬよう、影として付き従っていたに過ぎません」
「ほほう?」 「お嬢様は、我らキクチに伝わる謀略論の基礎を、すでにご自身のものとされ。あの場で瞬時に応用されたのです。このイヅル、感服の念に堪えません。まさに『翼ある蛇』の血統、末恐ろしい御方にございます」なんですって!?
事実と、嘘と、お世辞をミルフィーユみたいに重ねて、最終的にとんでもないものをお出ししてませんこと、この執事っ!?「ちょっ、待ちなさい。イヅル、明らかに致命的な脚色が――」
わたくしが口を挟むより早く、おもむろに眼鏡を外し、目頭を押さえるフリまでした。なんて白々しい!
「何たるご成長の早さかっ! この私めを、赤子の如く手玉に取り、駒として自在にお使いになられる器量! ああ、生涯をかけてお仕えする主君を得た喜びで、胸がいっぱいでございます!」
あまりに大仰な賛辞が、厳粛な書斎に響き渡った。
絶対、涙なんか一滴も出てないでしょうがっ!しかし、パパは娘に甘い。そして、思い込みも激しい。
イヅルの大仰な賛辞を聞いて驚き。やがて、瞳の色がじわじわと感動へ変わっていく。「な、なんと!? そうか、我がビーチェは、すでにそこまでの高みに。くっ! 何も見えていなかったのは、父親である私だったというのかっ!」
パパの目に、うっすらと光るものが。大きな手が、わたくしの両肩をがっしりと掴む。
「よくやった、ビーチェ! よくぞ、我が娘として、シャーデフロイ家の誇りを天下に示してくれた! さすがは私の子だ! 嬉しいぞ!」
「えっ、あ、は、はい!?」この流れで「違います、ただポンコツにコケただけです」なんて、言えないじゃない! すごく良心がキリキリ痛むのよー!!
パパったらどうして、こういうところはすごく純真なの!?「あの、わたくしはまだ未熟者ですので。あまり重い期待を寄せられるのは、その……」
「うむ。確かに、イヅルの補助あってこそだったやも知れぬ。だが、忘れるな。こやつが動いたのは、お前が自ら“行動した”からだ」 「行動、したから?」 「そうだぞ、ビーチェよ。覚えておきなさい。檻で待つだけの子羊は、ただ食われるだけの定めだ。たとえ、不格好に転んだとしても、牙を剥こうともがいた者だけが、盤上を動かす資格を得るのだ」いいこと言われているのはわかるのだけど、「不格好に転んだ」という部分だけ、比喩じゃなくて事実だから、心がチクリとするわー。
パパはごつごつした指で、わたくしの頭を不器用に撫でた。昔と変わらず、やっぱり温かい。「よくやった、我が娘よ。だが次は、もう少し。その、なんだ? 心臓に優しいやり方を頼むぞ。……パパ、困っちゃうから」
「……はい、パパ」本当にしんどそうな顔をされてしまったので、こくこくと頷くことしか出来なかった。ごめんなさいね、パパ。
こうして、史上最大の失態は、何故か父と娘の感動の和解(という名の、壮大な勘違い劇場)で幕を閉じた。
わたくし一人、納得がいかないまま……。書斎から解放され、自室に戻る夕暮れの廊下。
窓の外が茜色に染まるのを横目に見ながら、わたくしは隣を歩く元凶を、ジト目で睨む。「あなたって、本当に、口から出まかせばかりですのね。イヅル」
「おや? 一点の曇りもない真実を、申し上げたまでですが」 「どこがですの! 謀略論!? 応用!? 初耳も初耳ですわ! わたくし、そんな難しいこと、教わっておりません!」 「おお、左様でしたか。教えていないことまで出来てしまうのですから、お嬢様はやはり、まごうことなき天才なのですよ」 「……もう、いいですわ」この男に、何を言っても無駄ね。わたくしは、また一つ虚しい学習した。
ああ、本当に。わたくしの周りには、食えない大人ばかりだわ!「ただ。お嬢様が、誰よりも努力家の才女であること自体は、疑いようのない事実かと存じます」
そっと足すように掛けられた言葉。それだけは、いつものからかう響きがなくて。なんだか、不意を突かれて何も言い返せなくなってしまった
認めてくれていない訳じゃないのよね。
ただ、面白い玩具として遊ばれている気がしてならないのだけど。「ですが……なにかの偶然という可能性はありませんか。たまたま本が落ちて、誰かが並び替えたとか。そう、それこそイタズラ、とか……」「信じたくないのはよくわかる。だが、ありえん。この状況下で、そんなイタズラをする馬鹿がどこにいる。私が、襲撃の報を聞いて、席を外した、ほんの僅かな間だぞ」「そう、ですね。……確かにタイミング的に、イタズラはありえない。しかし、だとすると……」 ローラントの顔が、絶望に染まる。 そうだ。即席の思い付きでは、ありえない。私の本棚に、どんな本があるかを把握してなければ、こんな真似は早々できんのだ。 故に、より恐ろしさが際立つ。「ですが、殿下。もしこれが、黒幕からのメッセージだとしたら、あまりに不可解です。なぜ、自分たちの標的を、わざわざ教えるような真似を?」「……わからん。だからこそ、不気味なのだ」 とんだ挑戦状だ。資料を焼いたうえで、この私に向かって、堂々とベアトリーチェ嬢を狙っていると、アピールしてくるとは。 もはや、「いつでも、貴様の身の回りの誰かを手に掛けられるぞ」と脅迫されているに等しい。頭に浮かぶ……大切な人々。「クク、ククク……。面白い」 不意に、乾いた笑いが、私の口から漏れた。 ああ、怖くてたまらない。怖いさ、たまらないとも! だからこそ、“僕”はシュタウフェン王家の次期後継者として、強く、振る舞わねばならなかった。「受けて立つぞ、正体不明の黒幕よ。このバージル・ファン・シュタウフェンが、この程度の揺さぶりで臆するとでも、思っているのならば――」 “僕”は自らを奮い立たせるように、そう宣言した。 それこそが、皆が、この国の未来を担う者に、求める姿なのだから。「必ず、後悔させてやるっ!」 臆病者には、誰も付いてこない。だから、“
「してやられた、な」 されど、そう悲観することもないかもしれない。 ともすれば、これは私が真実に近づいている証左なのではないだろうか。 少なくとも、“黒幕”はそう恐れた。私という男を。そう考えれば、この胸の屈辱も、少しは――。「……などと、思わねばやってられんな」 虚勢だ。吐くのは、自嘲のため息。いずれにせよ、ここにあった事件の調査資料は、灰燼に帰した。 まさしく、犯人の思い通りになってしまった訳だ。(ならば、シャーデフロイ邸への襲撃は、陽動だったのだろうか?) いや、待て。犯人のもう一方の目的は、この私自身の暗殺だったようだ。 ならば、奴らにとって、“標的の王太子バージル”がここにいなかったことは、予想外だったのではないか。 そうだ。だとしたら……、まだ、“僕”は負けてない。 思考が、すぅっとまとまり――ふと、見上げたそこには、本棚が。「バージル殿下?」 動きを止めた私に、ローラントが心配そうに声をかけた。 だが、今はそれどころではない。本棚の配列が、変わっている。太陽への道、通商勅令、ある若き騎士の迷い、聖オットーの双王国年代記……。「……ローラント」「はっ」「私に、シャーデフロイ家襲撃の報を知らせ、この研究室から連れ出したのは、お前だったな?」「はい、もちろんでございます! ……それがなにか?」「ならば、信じるとしよう」 おそらく、ローラントは“白”だ。彼の忠誠心は疑いようもないだろう。 だが、他の騎士は? このアカデミーにいる、ありとあらゆる人間は?「バージル殿下。いったい、なにを……」「静かにしろ。壁に耳あり、だ」 ただならぬ気配を感じ取ったのか、ローラントは息
私は、この不吉な艶やかな黒に、目を細めた。紫がかった妖艶な色彩に。「これも、あえて残された、のか?」「……おそらくは」 もはや、不可視の戦争。そんな渦中に、知らぬうちに巻き込まれている。 どんな仮説を立てても、決定的な証拠に、何も至らない。「殿下。他の場所でも、同様の戦闘痕が、複数発見されております。この痕跡は、道しるべのように……王立アカデミーの方角へと、続いておりまして」「なんだと?」 ますます、面倒なことになった。 我々は、何者かの手によって、誘われているのだ。 あらゆる情報が、先程まで我々がいたはずの、あの場所へと、導いていく。「……行くぞ」 辿りついた図書館。司書に確認を取れば、判明する不自然な|魔術警報《セキュリティ》解除。 それは己のいた区画、第7書庫。そこを担当しているはずの、司書補ルチア。 まさか、と思った。いるかもしれない。険悪な関係の……我が婚約者が。なぜかそんな予感がした。「――二人とも、無事かっ!」 急いだ先に広がっていたのは、信じがたい光景。 床に転がる、さらなる賊、四人。 そして。「ベアトリーチェ……嬢。それに、ルチア」 目に飛び込んだのは、およそ現実とは思えないちぐはぐな絵図。 片や、涙目でぶるぶる震え、立ちすくむ令嬢。 片や、頬に血糊をつけたまま、穏やかに微笑む、もう一人の令嬢。「これは、一体、何があったんだ?」 思わず、唖然としながら投げかけた問い。 二人は、顔を見合わせると、こう答えた。「「そこに悪い人がいましたので……?」」 まるで示し合わせたような言い訳に、覚えた眩暈。 ――これはきっと、疲労が見せた幻覚に違いない。***
あれは、嘘偽りなき真実なのだろう。 私はそう思った。 “一人の父親として、ただただ娘の身を案じております” 走り書きされた文字には、父親の悲痛な思いが滲んでいたように見えた。 だからこそ、だ。シャーデフロイ伯爵邸に駆けつけた時、目の前に広がる光景に、己の思考が凍りいたのは。 門は、半壊。巨大な獣がこじ開けたかのように、へしゃげて。 かつて、寸分の狂いもなく整えられていた庭園は、いくつものブーツ跡で踏み荒らされ、魔術によって焼け焦げていた芝生が異臭を放つ。 ――戦闘は、あったのだ。間違いなく。それも熾烈なものが。 甲冑を着た衛兵たちが、負傷した仲間を運び出し、怒号に似た声を張り上げる。 だというのに。「これはこれは、殿下。……こんな夜分に、お早いことで」 館の大扉から、悠然と現れた当主ウェルギリ伯は。 今しがた、極上の一瓶を開けたところだと言いたげに、ブランデーグラスをゆるり揺らしていた。 背後では、メイドたちが、ガラス片を手慣れた様子で片付けている。そう、淡々と。日常の一環のように。 箒が掃く、サッサッ、という乾いた音。(伯どころか。使用人たちの、この落ち着きよう。この異常事態に、まるで動揺していない。……これは、なんだ?) 違和感を飲みこんで、私は尋ねた。「……どういうことだ、伯爵。一体、何があった」「なあに、文でお知らせしたとおりです。小うるさい羽虫が、騒いでいただけのこと。既に、叩き潰しましたゆえ、御安心召されよ」「だが、そなたからの報せでは……令嬢がっ!」「おお、左様。それについては、誠に、そう、誠に困っておりましてな。いやはや、どうしたものか、と」 そこにいるのは、愛娘の危機に動転する父親では、断じてなかった。 平時と何ら変わらぬ、悠然とした『翼ある蛇』……父王が警戒して止まぬ、辺境の
ガタン、ゴトン。石畳を駆ける車輪の音が、やけに頭に響くわ。「……で?」 向かいの席に座る、我が腹黒執事に向かって、わたくしは非難の声を上げた。「で、とおっしゃいますと?」「どこで油を売っていたのよっ! わたくしが、どれだけ大変な目に遭ったと思っているの!? 危うく、人生が、終わるところでしたのよ!?」「逆に、こちらもお聞きしたいのですが。待つようお伝えしたのに、なぜ、殿下の研究室から、わざわざご移動しようと?」 ……沈黙。 あ、これ、知ってるわ。わたくしの軽率な行動を、ねちねちと責められるパターンのやつだわ、あわわわわ!?「あー。……まあ、今回は、特別に、大目に見て差し上げてもよくってよ?」「まさかお嬢様は“待て”すら出来ない、やんちゃなお子ちゃまでいらっしゃいましたか?」「違うもん! あなたが、あまりに遅かったのが悪いんだもん!」「結果として。お嬢様の行動は、王立アカデミー附属図書館の|魔術警報《セキュリティ》に穴を開けたと同義なのですが、ご自覚は?」「はうっ!?」 そうなのよ。わたくし、隠し通路から、脱出しようとした訳だけれど……。 なぜか、区画の警備魔術が、一時的に、ごっそり解除されてしまっていたんですって!「あれって……やっぱり。わたくしの、せい、かしら?」「他にあるわけがないでしょう。おそらくは、王族の緊急避難通路を、不用意に起動した不具合でございますね」 スパッと言い切られた。うぐぐぐっ。「襲撃犯たちは、お嬢様の作った穴をまんまと利用し、殿下の研究室へ辿り着いた、と。よくぞまあ、侵入者を“手招き”しておいて、皆様にバレずに済んだものですね?」「いやぁあああっ! 言わないで、イヅル! なにも聞きたくないぃぃぃっ!」 ああっ、すべてが――わたくしのやらかしっ! 幸い警備体制を解除
ルチアは、スティックに付着した血を、悪漢の服で雑に拭うと。 何事もなかったかのように、カチリ。それを腰に差した“杖の隣”へと、何事もなかったかのように、収納した。 杖との二本差し。つまり、あれは……折り畳み式の、対人魔術兵装。「ベアトリーチェ様! お怪我は、ありませんでしたか」「ひゃ、ひゃい! わ、わたくしは、だ、大丈夫ですけれど!?」 ぱたぱたと駆け寄ってくるルチア。 わたくしは恐怖のあまり、後ずさることしかできない。 だって、怖い! この子、どう考えても、わたくしより、あの魔獣より、ずっと、ずっと、怖い!?「え、でも。顔色悪いですよ? 本当に大丈夫ですか?」 わたくしの手を取り、心配そうに、顔を覗き込んできた。どの口が言ってるのかしら、あなたは?! でも、こくこくと、頷くことしかできなかった。「ふぅー、結構、いい運動になりましたね! あ、そうだ。司書さんに報告しなきゃ」 「うぎゃー」とさらに、どこからか新たな悲鳴が聞こえてくる。バージル殿下の研究室からだった。「あー。まだ、侵入者さんいたんですね。……一度、|魔術警報《セキュリティ》に検知されたら、図書館に住み着いている“知識のゴースト”さんたちに、魂吸われちゃうのに。あーあ、かわいそう」「かわいそうって!? この図書館、危険地帯過ぎませんこと!?」「そりゃ、国家の重要研究機関に付属する、機密書庫なんですから」 当り前でしょう、とルチアは首を傾げる。 わたくし、なんて恐ろしいところに忍び込んでいたのかしら。色んな意味での恐怖が、今さら、どっと伸し掛かってくる。「でも。ちゃんと、お約束、果たせてよかったです。ベアトリーチェ様にも、お父様にも」「あなたのお父様じゃありませんことよ?」 機嫌よさそうにニコニコするルチア。いいから、頬の返り血を拭いてちょうだいよ。 さっきまでの、戦いっぷりは幻覚だと思いたいけれど、証拠が目の







